トヤマ創業の心
時代が移り、技術が進歩しても変わることのないトヤマの企業姿勢、この根底に流れているのが、創業者であり現会長である遠藤元正の生き様、信念だ。
どのような思いで仕事に臨み、トヤマを築き上げてきたのか。
トヤマの原点を、歩みを、その言葉のなかに探ってみた。

トヤマの原点
研究者の先生方の工作をいわば便利屋的にやる仕事。その流れが、すべてトヤマの原点につながっています。昭和20年に東大航空研究所(現・文部省宇宙科学研究所)に入所してから、また昭和29年に独立して創業した遠藤製作所の創生期に私がやってきたのは、研究者の先生方の工作をいわば便利屋的にやるような仕事です。その流れが、すべてトヤマの原点につながっています。
たまたまある時期が東大原子核研究所のシンクロトロンの立ち上げであったり、またある時は東海村の原子力研究所の実用燃料の試験施設を作るときだとか・・・。そういうものを作るとき、つまり一品一様でものづくりをするときに、大手メーカーでは小回りが利きにくいので、私のような先生方の便利屋が必要になるわけです。
もちろん研究所には工作を担当する部門があります。しかしどうしても事務処理とか、手続きとかが必要になって時間がかかるようになるし、彼らも人の子ですから手間のかかる、面倒なことはできればやりたくないわけです。その盲点をつくことで私の出番が生まれ、それで生きてこれたということなんです。こう言うとかっこよく聞こえるかもしれませんが、誰も手を出さない仕事、放っておかれた仕事を自ら進んでやってきた。まあ、落ち穂拾いのようなものですがね。
航空研を辞めて独立したのも、組織に縛られない自由な立場で、他の人にはできないような便利屋的な仕事を突き詰めてやりたかったからです。のびのびと、自分のやりたい仕事ができるようにね。そして、先生方が設計まで手が回らず、また人でも足らないために丸ごとやってくれと頼まれて、後に機械加工だけでなく設計も手がけるようになりました。それからというもの、先生方からはますます重宝がられました。小さいメーカーながら、トヤマに設計部門が誕生したのはこうしたきっかけでした。
核研のSOR−RING建設の際には、電磁石の製造をお手伝いしましたが、初めに研究施設を作ろうとする段階で先生方には十分な予算がありませんでした。常識的に考えても、予算の少ない仕事には魅力はないわけで、当時、大手メーカーは揃ってこういう仕事に消極的でした。そこで、私に声がかかったわけです。
「少し予算をもらったけれども、なかなか手伝ってくれるところが見つからない。遠藤さん、どうだ。手伝ってくれないか」と言われて、「じゃあ、やりましょう」というのが最初のきっかけです。
このような調子ですから、世の中の景気、不景気には関係なく仕事はありましたけれど、ぼろ儲けなどできるはずもありません。会社をやっていけるのだろうかという場面に何度も出くわしましたし・・・・・。ただ、今もこうしてトヤマがあるということは、神様は見捨てなかったということでしょうか。

面白いとなったら夢中で
先生方が私に声をかけた、言ってみれば白羽の矢を立てたのは、「遠藤は面白い仕事だったらきっと手伝ってくれる。難しい注文でもなんとかしてくれる」と知っていたからでしょうね。
航空研時代のことですが、ある実験装置では表面精度が一番の問題でした。千分の一ミリの精度が必要だったのです。当時の技術では、ただ機械で削るだけでは済まないし、普通のものじゃ磨けません。この時はいろいろ思案して、ホオズミとか鹿の角とか、飾り職人が使うもので磨いてなんとか仕上げました。時計の修理もやったことがありましたから、時計職人が金銀細工に使うホオズミや鹿の角のことを知っていたのです。
自分の専門のところは、みんなそれぞれに勉強していて、いいものができる。ところが、これをくっつける段階でダメになる。そうやって機械加工だけではカバーできないことも、工夫を凝らして何とか完成させてきた。そんな仕事ぶりを先生方が覚えていてくれたわけです。
先生方が、頭の中に実験に必要な道具を思い描いても、また図面を描いても、実際にそれを「かたち」にする手立てがなければどうしようもありません。先生方の描いた青写真を実現するためには、機械加工だけでなく幅広い知識や経験を生かしてサポートできる人間が近くにいなければ困る。それがたまたま私だったというわけです。
私には、先生方がやっている研究の詳細まではわかりません。わからないけれど、先生方は「うまくいった」と言ってくれた。うまくいったから、また声がかかって新しい仕事にチャレンジする機会をいただいた。その繰り返しだったのです。
企業経営者の多くは、まず採算を考えます。おまけにモノになるかどうかわからない面倒な仕事はリスクがあるから手を出さない。でも私はお金じゃなくて、ただ面白い仕事をやりたいという思いでした。ここが大きな違いです。
金敷
金敷−かつて鍛造部品を製作するのに使用していた時代物
もちろん、現実にはこうした便利屋的な仕事だけで会社の経営は成り立ちませんでした。そのため、ミランダカメラのボディの加工をはじめとして、いろいろなメーカーさんから図面をいただき、部品加工をやって納品するという地道な下請け仕事で売上を確保し、ご飯を食べさせてもらっていたというわけです。
昼間はメシの種になるメーカーさんからの仕事に従業員とともに精を出し、それが一通り終わってから自分一人であれこれ工夫しながら研究所の仕事に没頭するようなことも少なくありませんでした。夜中に核研や航空研に出かけ、午前様で帰宅したようなことも珍しくありません。でも、研究所の仕事は私自身の夢を追いかけるような仕事でもありましたし、さして苦労だとは思いませんでした。今思えば、こうした経験が現在につながる肥やしにもなったのだと思えるのです。
好奇心とチャレンジ精神
昭和9年、私が15歳で日産自動車の工場に勤め始めた頃、自動車のフレームには木材が使われていました。今の人には信じられないことかもしれませんね。私がラッキーだったのは、このように日本の工業技術の黎明期から現在に至るまでの進歩を、身近なところで見てこられたことです。そろばんが当たり前の時代から手回し計算機、電卓、パソコンが一般家庭にまで普及する今までの足跡を、ずうっと見てこられた。こんなに激しい時代変化をものづくりの現場で目の当たりにしてきた世代はなかなかないでしょう。
そして、研究所で先生方が進めておられた最新の研究に、あくまで裏方としてではありますが、関わってこられたのも私にとっては大きな喜びです。ただし、ほとんどが割に合わない難しい仕事で、誰も手を出さないのを引き受けてきたわけです。普通の人なら断る仕事を、私の場合は逆に拾ってきたわけですね。
例えば大きな金属の真ん中に、コンマ3ミリの穴をあけてくれと言われたことがありました。今では造作もないことですが、当時としては大変な仕事です。普通の機械加工屋さんは嫌がってやらない。それを、私は時計屋さんが持っているコンマ1ミリのドリルを使って仕上げました。時計屋さんは、大きな金属の加工なんてやったことがない。機械加工屋さんは細かな仕事を嫌う。私は両方知っていたから、できたわけです。
遠藤会長
私は昔から、何でも好奇心旺盛に首を突っ込み、新しい情報や知識を自分のなかに少しづつ蓄積させながら、また新しいチャレンジをするということを絶え間なくやってきました。
普通は、畑違いのことはわからないから、初めから首を突っ込みません。でも私は、だからこそ面白そうだと思って首を突っ込むのです。書棚には半導体理論の本や真空の本などもありますが、私にとっては難しい内容です。でも文章は日本語ですから、難しいなりに部分的に読むことはできる。専門用語の一つや二つくらいは覚える。自分なりに大体の見当をつけて想像することもできる。
だから、畑違いの先生方にアドバイスを仰いでも、なんとか対話が成り立つし、まったくの無知ではないということでいろいろ教えていただけるのです。このようにして、材料の知識だとかを仕入れてきました。何でも興味を持って見るという姿勢が、最終的には大きな実を結ぶのです。
「他の人にはできないような仕事をする」。これこそトヤマの存在価値であると実感したのです。一般的に、機械加工屋さんは機械加工のことだけ、材料屋さんは材料のことだけ、設計屋さんは設計のことだけを考えがちです。それがエキスパートだとも言われます。自分の専門のところは、みんながそれぞれ勉強しているから、いいものができます。ところが、これをくっつける段階でだめになることがある。
まぁ、それぞれの分野の人たちがどちらかというと視野を狭くしているから、うちにチャンスがあったとも言えますけどね。いわば隙き間産業で、うちが接着剤になっているわけです。その接点の役割が大きな会社ではなかなかできない。私らのような中小企業がいいのです。大会社と競争しようというわけではありません。大企業ではできないこと、我々にしかできないことをやるわけです。

量産品と人材育成
遠藤会長
若かりし頃の会長
研究所ばかりでなく、企業の開発のお手伝いもさせていただきました。でも開発がうまくいって量産する段階になると、うちではやらせてもらえませんでした。一時は高価な工作機械を導入して量産を手がけようと考えたこともありましたが、自分の生き様には合わないと思い、やめました。でも、今改めて振り返ってみると、量産品を手がけなかったのは正解だったと思えるのです。
量産するとなると工場用地も要るし、機械も要るし、人も要るし、膨大な金が要ります。大きな資本があって、人が揃っているなら郊外に工場でも建てて大量生産するのもいい。でも、結局それは私のやるべきことではなかったんですね。自分の器は、自分が一番良く知っています。それを勘違いして失敗した人を、私は何人も見てきました。
それに、開発するのは難しくても、かたちができてしまえば、やれる人間はほかにいくらでも出てくるものなんですよ。手品だってタネをあかせば簡単なことで、練習すれば誰でもできるようになるでしょう。そうなると次はコストダウン、値引きの競争になってくる。
日本初の一眼レフカメラであるミランダカメラの開発のお手伝いをした時は、初めはしんちゅうブロックから削り出して試作機を三台作り、その後はプレスの型を作って最初の2000台ほどを我が社で製作しましたが、その後はうちから手が離れていきました。
電子レンジにも使われているマグネトロンの開発のお手伝いもやりましたが、いざ家電品として大量生産するとなると、コストダウンに次ぐコストダウンで、今では人件費の安い海外での生産が常識になっています。
このような経験などから、量産品はトヤマのやるべきことではないと知ったのです。他の人にはできないような仕事をするのが、トヤマの存在価値であることを実感したのですね。以後、基本的に量産品はやらないことを一つの方針にしてきました。
時計旋盤
時計の修理に使用した時計旋盤
(今でも工場の片端で稼動しています)
ただし、会社経営を軌道に乗せていくために何百個単位の仕事も並行してやってはいました。それには理由がありましてね。先生方の研究のお手伝いで一品一様の仕事をしていくことは私の喜びであり、会社に活力を与えてくれるものでしたが、それだけでは若手は育たない。今後の会社を支えてくれる社員の育成という観点に立てば、技術を着実に伝承していくことも重要です。
要するに、一個作るだけだったら教えようがありませんよね。五個作る、十個作るということなら、一個作って見せて、あとはやらせてみることで技術を伝えることができます。そういう意味から必要なのです。
もう一つはコスト意識を養うためです。「一個だけのもの、よそではできないうちだけのものだから、これは30万円、これは50万円」というと、お客様は目を回してしまいます。よそではやってくれないから仕方なくお金を払うだけで、決して納得して払っていただけるわけではありません。
お客様に納得していただくには、たとえオーダーメイドの製品でも、一円でも安く提供する努力が常に必要です。数があるものを手がけていないと、どこで、どうやってコストダウンすればいいのか、その勘所がわからなくなりますからね。
ただ基本的に、他ではできない付加価値の高い仕事をするのがトヤマであり、それは今後とも変わらない方向でもある。このことをしっかり踏まえた上で、時には長期的な人材育成を考えた判断も柔軟にしていった、ということなのです。

マニュアルを作る仕事
遠藤会長
現在の遠藤会長
私が仕事を進める上で一番大事だと思っているのは、やる気があるかないか、楽しいか楽しくないか。つまり自分から積極的に仕事に取り組むことができるかどうかです。
ただ給料が欲しいだけだったら、私がやってきたような仕事はできない。それだったらマニュアルどうりにできる仕事をやったほうがいい。少し慣れてくれば、頭で考えなくても手が動いてくれますからね。「今晩のテレビは何だったかな」などと考え事をしながらやっていたって、ちゃんと仕事はできるようになりますから。
でも私の場合は、自分の頭で考えないと始まりません。さて、こんな仕事が来たけれども、材料はどうするか? どんな手順でやるか? どんな道具、どの機械を使ってやるか? と考えなければならない。そういう意味では能率は決していいとは言えませんね。能率は良くないうえに、マニュアルは自分で考えなければなりませんから、大変な仕事です。
例えば子供の遊びで、木片を削って船を作るとしても、木をいきなり切り出して形を作るのか、水に浮かべて一度重心を確かめてから削り出すのか。同じ形に仕上がっても、水に浮かべて競争すれば違いは一目瞭然です。いきなり削った方は重心がとれていませんからバランスが悪い。重心をとってから削った方は、重りがなくても転覆しないし、船足も速いのです。自分の頭で考えるようになると、誰に教えられなくてもこういう工夫が自然とできるようになるのです。
自分で考えることが好きな人、言われたことをただ言われた通りにやることに満足できない人には、もってこいの仕事のやり方です。ただし、一人一人のマニュアルを考える力、マニュアルの作り方によって差が生まれてくる厳しさがそこにあることを忘れてはいけません。自分の思い通りにできる仕事ではあるけれど、それだけにシビアでもある。マニュアルがあれば書いてあるとおりにやっていればいいのですからね。

会社を始めた想い
「金の卵」だとか言って中卒がもてはやされた時代があったでしょ。私自身も学歴がない。学歴はなくて技術一本で育ってきた。貧しかったし。だから、創業当時には同じような境遇の人たちを豊かにさせてあげたいという、一つの夢がありました。
金儲けのための道具ではなくて、極論すると日本の国はつぶれても、飯を食うには困らないような人間を作ってやりたいというのが、私の夢でした。そういう想いで、うちの工場を作ったのです。
だから道具は好きなように作らせました。普通は作らせないですよ。買ったほうが安いし、早いですから。他の会社なら「何をくだらんことをやっているんだ」ということになります。
私はそうではなく、養成したいという考えがあったから、それなりにやってきた。だから勉強したい人は、かなり勉強できたと思います。自由に勉強させたし、聞かれれば教えました。世の中は能率一辺倒でしょう。私は能率一辺倒ではなくて、人材一辺倒で来た。経営の方針が180度違ったわけです。
私は能率一辺倒ではなくて、人材一辺倒で来た。経営の方針が180度違ったわけです。そういう意味では本当は恵まれた話だと思いますが、その想いが伝わった人が果たして何人いたのか・・・・。そこが人を育てることの難しさですね。
ついてこられる人はついてきました。その人には、知らないうちにいろんな技術が身についているはずです。本人は気づいていないかもしれませんが、ずいぶん得しているわけです。もっとも、気がついている人はもっと得しているわけですが。
社名ですか? 新宿区の戸山町が発祥の地なので、戸山精機としましたが、それを昭和43年にカタカナの「トヤマ」に変えたのです。
以前は求人のために東北に行っていましたが、「八戸」なんてあるでしょう。「戸」は「へ」とも読める。「戸山」を「へやま」と言う人もあるわけです。それに一戸、二戸(いっこ、にこ)とも言いますよね。だから「こやま」と言う人もいるわけです。漢字は不便だと感じて、カタカナで「トヤマ」と直せば間違いなかろうというので、「トヤマ」に直したのです。
それがまた時代の最先端を行ったとかで、周りから「よく先が見えたね」なんて言われましたけれど、タネを明かせば、先が見えていたわけではないのです。「ヘヤマ」だとか「コヤマ」だとか間違えられて迷惑だから、はっきりわかるように「トヤマ」にしたのです。いちいち説明しなくてもわかるようにね。だたそれだけのことです。


なにごとも意欲的に
もともと私は日産に給仕として就職しました。事務関係の使い走りの小僧です。書類を運んだり、お茶を運んだり・・・・。
この給仕上がりの人は夜間の大学を出て、だいたい秘書課に勤務するのです。でも、「待てよ?」と思ったのです。
周りの先輩たちを見ていると、例えば偉い人に会うと、相手の人がたばこを吸いたいと言うと、たばこをパッと出すのです。そして立派なライターでパッと火をつける。どういういきさつでああなったのかはわかりませんが、あれを見てがっかりでした。あんなふうにはなりたいくないと。
もう、没我でしょう。個人がないもの。まずそういう世界に順応して、起用されなかったらダメな社会でしょう。下が上、上がまた上の顔色を見ながらそういうことをやっているでしょう。
奴隷から脱皮したい場合は、意欲的に自ら進んで身を捨てなさい。そうしないと何も残らない.これが僕の主義主張ですみんないい学校を出てる人ですよ。そこへ僕のような学歴がない人間が出ていってもどうしようもない。だから現場へ出ようと。職人になろうと。それが僕の出発点です。先にも言いましたように、何でも工夫したり、他の人が考えつかないような発想をしようとするタイプでしたから、給仕の仕事で満足できないのは明でもありました。
ただし、始めは現場で何もできませんので、小僧からスタートです。仕上げ部門に配属されたのですが、あちこちに顔を出していました。仕事を覚えようと思って現場に出てきたわけですから、色気があるわけですよ。
職人なら決められた仕事もあるし、ノルマもあるからそんなことはできませんが、小僧ですからね。比較的自由にあちこちの現場に出入りして仕事を覚えました。
結局、トヤマ時代の仕事でも同じですが、何ごとにも意欲的な人が最後には得するのだと思います。面倒は避けて通ろう、給料だけが欲しいという人は、私の結論からいうと損です。
人間は体験したことだけがものになります。企業に所属していても「搾取されているのだ」という考えを持っている人は、それこそいつになっても企業の奴隷です。奴隷から脱皮したい場合は、意欲的に自ら進んで身を捨てないさい、そうしないと何も残らない。これが私の主義主張です。
ですから、自らの運命を開拓すると言う考えをもたない人はかわいそうですね。何くそと思って、それを破ったときに、努力したところに初めて光明はさすわけです。私はそれをやってきましたから、結局は得をしたと思います。やらなくてもいい仕事でも首を突っ込んでやってきたことが、みんな今に生きているわけです。
ボールペンのペン先もやったし、カメラの部品もやったし、ミシンも踏んだし、時計直しもやった。やるということは、やるという意思と同時に、ある程度の見通しがなくてはだめです。それには絶えずアンテナを立てて、情報を集めておかないといけません。
ミシン
航空研時代に手掛けたミシン組立。40年以上経った今でも立派に動いている。
時間をむだに使って、ただボーッとしていても何にもならないということです。せっかく仕事があるのですから、片付けるべき宿題があるのですから、まずそれをりなさい、というのが私の考えです。宿題を片付けないことには、自分の未来は開けないという主義です。
要約すれば、それだけです。あとは何もありません。ですから、若い人にはぜひこれを言いたい。逃げてはだめです。何ごとでもこれと思ったら、突っ込むのです。やっただけのことは自分の身につくのですからね。損をしたと思ったらダメです。
「時間がもったいない。これだけのものをサービスしてしまった」なんてばかなことを考えないで、自分でせっせとうちこめば、それだけのものが身につきます。そう思えるようになるまで、なかなか抵抗があると思いますけどね。
人間というのはお互いに持ちつ持たれつです。人に嫌がることをさせたら、やっぱり向こうからも嫌がることをやらされます。
そうではなくて向こうにサービスすれば、必ずそのサービスは返ってきます。期待してはいけないけれど、期待しなくても、天の蔵に蓄えておけば、いつかは芽が出てきます。私はそう信じているのです。

会社概要トップ−社長ごあいさつ
会社概要沿革

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